殴らなければ指導できないか、、、。名戦闘機隊長鴛淵孝大尉に学ぶ。

 昨年12月、大阪の市立高校でバスケット部の主将を務める17才の男子生徒が、顧問の教師の体罰に耐えかねて自殺しました。この顧問は、主将に「気合い」を入れることによって、チーム全体に「気合い」を入れようという考えがあったらしい。生徒は亡くなる前日、練習試合中に3〜40発も平手打ちで叩かれました。もし主将を何十発も叩いてチームが強くなるなら、主将の役割とは、顧問の仕事とは何なのか。組織では嫌われ役の上司や、怒られ役の部下がいるというのはよくある事ですが、これは度が過ぎている。1発、2発でも痛いのに。全くおかしな話しです。

 旧帝国海軍には士官を養成する海軍兵学校というところがあり、ここでは上級生が下級生を何かにつけては殴っていました。敬礼をしなかったとか、階段をタラタラ歩いていたとか、言いがかりばっかりだったと言われています。旧軍の悪弊ですが、必要悪だったという人もいるかも知れません。いずれ飛行機のパイロットになって敵艦を攻撃する時、対空砲火が怖くて目を閉じているようでは覚束無い。強い精神を作るのに役立ったという面もあったのだ、と。
 しかし、そんな中でも在学中に下級生を1発も殴らなかったのでは?と言われた人もいました。1919年(大正8年)生まれ。太平洋戦争直前の昭和13年海兵入校。
 鴛淵(オシブチ)生徒(兵学校での呼び方。戦死後少佐に昇進)。長身、明るく穏やかな紳士で、下級生を叱らなければならない時も諄々と諭すように話す。長崎中学ボート部出身。得意のカッター競技(分隊毎に分かれて行う大型手漕ぎボート競争)の指導などは懇切を極め、彼の分隊が優勝。自分はさんざん殴られて進級し、最上級の1号生徒になれば思う存分腕を振り回してもいい。にもかかわらず、1発も殴らなかった。
 卒業後はゼロ戦を駆って南洋に戦い、やがて紫電改戦闘機隊長として鴛淵大尉は日本の空を守り、昭和20年7月四国上空にて戦死します。
 目のクリッとした加山雄三ばりの格好いい写真が残っています。

 この違いは何か。戦時、18〜9才の軍人の卵(実際には階級を与えられていたが)と、平時、47才の体育教師。生徒が亡くなってから、指導ではなく体罰だったと認めるくらいなら、最初からしなければいい。生徒の心は勿論、自分をまで見失っていたなら、教師の資格はありません。顧問を擁護する意見もあるようだけれど、過度の体罰という他律的なものによるのではなく、自律的な精神を育てることの方が大切だと思います。
 新聞などで識者の方が、時代に合わせた指導が必要だとよく言っています。今の時代どころか、70年も前、それも戦争中に体罰に頼らない指導をしていた海軍の軍人がいたのです。
 海軍兵学校で鴛淵孝と同期で元艦上爆撃機操縦員である豊田穣著「蒼空の器」という本があります。
 鴛淵孝の生涯が描かれています。合掌。

義兄のこと。

 

 5月5日子供の日、ハンサムでスマートなジェントルマンだった義兄が亡くなりました。まだ60才。四つ年下の私の姉と三人娘、90を超えたお父様と80過ぎのお母様を残して。昨年暮れ、長く患っていた肝硬変が癌となったことが判明。それからわずかに5ヶ月。あっと言う間のことでした。
物静かで人の悪口を言わない、もちろん怒ったところなど見た事がない。航空会社の技術職として勤め、定年退職後も、早々に再就職口を見つけて働き続けました。長女はあと4ヶ月ほどで出産でしたが、これには間に合いませんでした。

 酒もタバコもやらない。打つとか買うとかいう上品とは言えない趣味はなく、読書家で知性的。運動はあまりやりませんでしたが、パソコンや機械の類いにはめっぽう強い。車の運転も方向感覚もいい。旅先のヨーロッパではレンタカーで初めての道でもドンドン走ってしまいます。
 2010年、初夏のスペインからポルトガルを回った姉と二人だけのドライブ旅行でも大活躍で、姉から留守家族に毎日の様に送られたメールでも、何百キロも一人で運転するパパに惚れ直して感激している様子が、イキイキと伝わってきました。
 一時帰宅を許され、家族と過ごした最後の正月。娘達の夫やボーイフレンドと私に、飲めない兄は盛んにビールを注いでくれました。アイフォンか何かの変顔写真にも楽しそうに付き合っていました。

 いったいなぜ?なぜに、このようなジェントルマンが先に逝かねばならないのか? 東北を襲った地震と巨大津波。なんの落ち度もない何万という人が亡くなったのはつい1年前。
 いったいなぜ?東北の人が苦しまなければならないのか? 首都東京の首長は「天罰」だと言ったけれど、なぜ日本社会への天罰が善良な東北の人達に下らなければならないのか?
 まったくもって神様は意地悪で、こんな不条理をだまって見過ごしているとしか思えない。誰が聞いてもいったいなぜ?
と思ってしまいます。
 
 しかし、これはどうもそういうことではないのかも知れない。おそらく。
 平均的な寿命に比べれば、60歳というのは早い方なのでしょう。確かに早かった。少年の頃、ある県に住んだことが、本人の意志とは関係なく肝臓の病を引き起こした原因と推測されている。その様なハンデを抱えた状態で、よく生き切ったと言えるのではないか。40年近く働き、三姉妹を育て上げた。厳しい節制の賜物だったと思います。
 チベット人の僧侶や一般の人が、焼身抗議という激烈な方法をもって、チベットの自由の為に身を捧げています。 兄は、それは、激烈な方法ではなかったけれど、一生を自分に厳しく、他人に優しく、家族を大切に誠実に生きた。
 まったくすごい人でした。
 7年前に亡くなった私の父とあの世で合流し、二人が好きだったヨーロッパの街、今度はどこに行こうかと相談しているでしょう。みんなはまだ来ないでいいよーって。


 

10ヶ月ぶりの更新。チベット情勢を憂う。

昨年2011年6月4日に、チベット・中国の旅の記録が終わってから、ぜんぜん更新してませんでした。

ところで、チベットの情勢は悪化の一途をたどっています。この1年ほどで僧侶および一般市民25名による焼身抗議事件が起こり、確認されただけでも15名が死亡しています。(数字は2012年2月22日、チベット亡命議会のロサルの声明より) これは、主に、チベット自治区の東隣で、四川省成都から北西に位置するカンゼ・チベット族自治州、アパ・チベット・チャン族自治州などの僧院の僧侶などによるものです。
また、日本国内報道およびチベット亡命政権内閣声明によると、2011年1月23日、チベット族デモ参加者に対する治安部隊の無差別発砲により死者6名(確認中)負傷者数十名(同)も出ているとのことです。

この様な情報に接しても私たち普通の日本人には、彼らを助ける術がありません。祈りを捧げるか、身の危険を犯して現地から漏れ出てくる断片的な情報によって、状況をつかむことくらいしかできない。

私がチベット・中国の旅で知り合った中国人、また、日本語教師をしていた頃の生徒たち、家の近所の中国整体の整体師、スポ−ツジムの在日中国人の会員などなど。これらすべての中国人とは別の種類の中国人がいる。人を殺めることをなんとも思わない人たちがいる、、のだが、、。
事実はどうか。本当になんとも思わないだろうか?
そんなことはないはずです。たとえ自衛のためであっても自分の手、刀、銃で人を殺める、まして無抵抗の市民を殺傷するなどという行為は、後にいわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症し、本人を苦しめるはずです。
ダライ・ラマ14世も、末端の中国人兵士や看守などが暴力を振るうことにより、彼ら自身を蝕んでいることに言及し、理解と同情を持っています。

中国指導部には世界から尊敬される様な国になるよう、21世紀の大国を導いて頂きたいと思います。

31日目① 北京から東京へ 4時間25分の遅れ! 2010年12月10日(金)

 旅の最終日。午後1時25分北京首都国際空港発のエアチャイナCA167便で、成田へ帰ります。日本時間午後5時55分着予定です。時差は1時間なので、フライト時間は3時間半。あっと言う間です。予定通りなら。

 朝はいつもの様に小さいけれど落ち着いた食堂で食べます。フランスのストラスブールの男性がいました。1998年に行ったことがあります。ライン川の支流の交通の要衝で、美しい運河が多い街です。また、過去の戦争によってドイツ領になったりフランス領になったりしました。欧州議会などの機関も置かれています。世界遺産である大聖堂近くのカフェに座って、人々を見ていると飽きません。石造りの街並みはどこも綺麗ですが、私はよく道に迷いました。
 毎朝給仕をしてくれた気のいいスタッフの写真を撮ろうとしたら、制服のジャケットを着るから待ってくれと。おしゃれな感じです。
 中庭では猫がじゃれついてきて、なんだか名残り惜しいですが、早めに北京空港に向かうことにしました。市内を抜けるとすぐ高速に入ります。来たときは夜だったので殆ど景色を覚えていませんが、広々としています。渋滞もなし。30分くらい、10時半には着いちゃいました。ちょっと早すぎたけれど遅れるよりはいいですね。
 空港は明るくて綺麗です。気のせいか、案内所などの女性もみんな美人ぞろいです。最後のお土産を色々選んでいたら意外に時間が過ぎるのが早かったです。午後1時には搭乗。あとは離陸を待つばかり、、、。
 ところが予定時間の1時25分を過ぎ、45分になっても全然動きません。そう言えば風が強く、機体後部が左右に揺れています。いつもの様に、翼の少し後ろ、今回は右の窓側席です。翼もかなり上下に動いています。やっと機長のアナウンスがあって、風が強いから離陸出来ないのでこのまま待機するとのことでした。2時25分、飲み物のサービス。3時15分頃、まだ動かず。ひと眠り。4時頃、目覚めるも動く気配なし。アナウンスありもう少しで離陸できると言っているらしい。窓から見えていた飛行機がいつの間にかいなくなっていました。どうやら少しずつ離陸している様です。4時44分、地上滑走開始。ここからがまた長かった。空港もところどころライトがつきました。5時50分。定刻を4時間25分遅れてやっと離陸しました。フーッ! 
 夕暮れの北京の街もなかなか良いものです。スグに天津あたりが見え、港湾施設なども見えます。そして、あっと言う間に海上へ。船の灯りが見えますが、ほどなく真っ暗になりました。
 最後は座り疲れました。日本時間9時40分に成田に着きました。フライト時間が30分ほど短縮しているのでスピードを上げた様です。それでも都心向けの電車は全部出てしまい、なんとかバスで帰りました。バスのチケットを買ったあとになってから、エアチャイナの係員らしき男性が無料のバスを準備してあると教えてくれましたが、出発時間が遅いのでもういいやと思って、利用しませんでした。アナウンスが不足してますね。旅の終わりに少しケチをつけましたが、何より無事に帰宅出来て良かった。やれやれ。2千枚を超える写真を見ながらビールを飲みました。
 楽しい、夢の様な1ヶ月でした。

30日目④ 北京 2010年12月9日(木)



 
 1ヶ月の旅行もいよいよ終わりです。明日は飛行機で日本に帰ります。南羅胡巷からのんびり歩いて帰って、大きいホテルの1階のスタバに入って、旅行を振り返ってみました。北京には多少参りましたが、面白い旅行が出来ました。旅と言うにはおこがましいけれど、会社に勤めていたらなかなかできない旅には違いないでしょう。チベットがメインの目的でしたが、2週間の滞在の為にその前後に余裕を持たせました。チベット自治区への入境許可が割合い簡単に出たので、実際には前後の余裕はもっと短くても良かった。まあ、これは時期によっても違うし、旅行会社でもわからない。相手は中国だから何が出てくるかわからない。
 まず、こういう点は改めて欲しいものです。計画が立てにくくて困ります。そのかわり、成都ではゆっくり出来たので気に入った場所もいくつか出来て良かったです。

 昨日あたりは体調を崩して鍋焼きうどんや日本酒の冷やが欲しくなるくらいでした。今日はもう大丈夫。成都でもラサでもシガツェでも44時間の青蔵鉄道も大丈夫でした。シガツェにドライブする途中、5、000メートルの峠を越しましたが、高山病はもちろん、体調も崩しませんでした。但し、ちょっと歩くと息苦しくなって、写真を撮るのもなんとなく落ち着いて撮れなかったかなー。
 これは空気が薄いからというよりも、ドライバーを待たせているからかも知れません。車の外でゆっくりはできない感じでした。自分で運転して行けたらいいのですが、その自由はない。公共のバスは外国人は原則として乗れないが、時期によって可能なこともある、などとガイドブックには書かれているくらい。こういうところにも自由がない。中国ではそもそも外国人が簡単に利用できるレンタカーの制度がないそうです。ドライブの楽しみくらいあっても良さそうですけどね。もっとのんびり気ままなドライブが出来て、ホテルに着く前に暗くなってしまったら、車を止めてそのまま寝てしまってもいい。ま、ムリだろうなー。

 北京の3日間は、やはり他の街と違う緊張感がありました。空気は薄くないし、自動小銃を担いだ武装警察も見かけなかったし、歩いてどこでも行けるし、カフェも沢山あったし、広々とした北海公園などは特に綺麗だし気に入った。けれど、どうも色々と「愛国教育」の影響を感じました。一定の年齢層に限られているのかも知れません。詐欺師には騙されませんでしたが、天安門のチケット売り場の案内がずさんで、イヤな感じがしたことなんかも今頃思い出します。
 チベットではもちろん、成都でも全く感じなかったことです。旅行直前、成都イトーヨーカドーあたりも反日デモで大変、尖閣諸島での漁船衝突事件もあった。誰かの指示で人を集めてデモをやるけどそれが終われば、普通の生活に戻る。街を行く人々が日本人を見ても別になんでもない。つい1ヶ月前に反日デモをやったはずの街なのに、全然その気配がない。人々は優しい。ハテ?どうなっているのか? 
 北京の方が成都より反日意識が高い?なんて言う事があるかどうか分かりません。北京郊外の中国人民抗日戦争記念館などは、今回は見に行きませんでした。本当は見ておかなければなりませんね。どのくらい客観的か、正確か、どのくらい宣伝をしているのか、どのくらい中国人に影響を与えているかなども確認しておいた方がいい。
 人口が多いから色々な人間がいる。首都と地方都市の違いがあるかも知れません。日本にいてもどこにいても、世界共通、大都市の匿名性というのがあります。人が多いから多少の悪さをしてもバレやしない、と思ってハメを外す。
 
 やはり、私は素朴な地方都市の温かさ、優しさと言うものが好きです。
 さあ、これからもっと言葉を勉強して沢山の友達を作ろうと、心に決めて、四合院スタイルのベッドでゆっくり休みました。

 

30日目③北京 北海公園から南羅鼓巷へ 2010年12月9日(木)


 北海公園の北門から出て地安門東大街を東へ歩くとすぐに、トレンディなエリア、南羅鼓巷という胡同があります。ゲストハウス、カフェ、ブティック、お土産屋にレストランなどが並んでいます。胡同の様な古い建物を、うまい具合に利用して流行の発信地に生まれ変わらせるというのは、北京に限らずどこでもあります。日本でも先月行った会津の喜多方などは、昔の蔵が沢山残っていて、カフェやお土産屋さんに変わっていました。最近見たテレビ番組では、確か上海の方でも、同様の再開発がされていました。どんな町に生まれ変わるかはアイデア次第です。あるいは文化と言うかソフトと言うか、パソコンみたいなものでハードだけあっても使い物にならない。ソフトとかコンテンツが大事です。
 歩いていたら「東京熱い服装」と言う店を発見。カタカナ英語風に言えば「東京ホットファッション」ですね。覗いてみました。残念ながらセンスを感じられる服はなかったと思います。が、こんな形で日本語が現れるとは思っていませんでした。日本の若い女性のファッションはアジア諸国で人気がある様ですから、それに伴って日本語も進出するわけですね。
 私が日本語教師をしていた1990年頃は、日本語を学ぶ理由は日本の経済力にありました。「日本語を話せる様になって、給料が高い日本の会社に入りたい。」と言う分かりやすい理由です。当時から、次は「文化」だと言われていましたが、今は確かに「文化」が人気の様ですね。アニメがこんなに流行るとはね〜。思っていませんでした。何が理由でも軍事力を背景にしたものでなければいいと思います。
 チベットでは中国語が話せないと給料のいい職につけません。軍事力を背景にした中国語学習という事になります。
 そう言えばいつだったか東京で、胸だったか腕だったかに「狙撃兵」とタトゥーを入れていた欧米人を見ました。狙撃兵だったんでしょう。
 
 少し歩くとチベットカフェを見つけたので、懐かしくなって入りました。仏像、タンカ、マニ車に沢山の置物。綺麗にチベット風にまとめています。モモを食べてチベットの青蔵ビールを飲みました。
 この流行の街にチベットの店があるということが面白いと思います。どのくらい受け入れられているかはわかりません。日式レストランすなわち和風レストランもありました。売れるならなんでもいいのでしょうけれど、本物の良さをいかに広めるかが難しいでしょうね。断然、応援したいです。

30日目②北京 北海公園 2010年12月9日(木)








 可愛いオート三輪の次はトロリーバスを見ました。バスの天井に2〜3メートルの金属の棒が2本出ていて、上を走る電線に繋がっています。カーブを走る時なんかは見ていると外れそうですが、うまい具合に伸び縮みしてちゃんと電気を取り込んでいます。
 遠くに面白い名前のホテルが見えました。ワッハッハ本舗ならぬ、WAHAHA HOTELですよ。漢字は娃の次がうまく変換出来ないので写真を見て下さいね。冗談が効いているのか大真面目なのかよく分かりませーん。
  
 しばらく行くと公園に三角形の金属製のオブジェがあります。1919、5、14とあります。大変お恥ずかしいことですが、その日の意味を知りませんでした。これは後で調べてみると、反日運動が起こった日でした。
 日清、日露と戦争に勝ち、日英同盟のよしみでちょっと出兵しただけの第一次世界大戦でも、運良く勝ち組に回った日本は、向かうところ敵無しと傲慢な態度で、対中国21ヶ条の要求を突き付けます。これはドイツが持っていた青島ビールで有名な山東省や、南満州鉄道いわゆる満鉄など中国東北部、また東岸部などの権益を寄越せというもの。軍事的にも産業的にも日本の言う事を聞けという内容です。しかし、山東省で言えば、ドイツが日本に変わっただけであるとか、沿岸部に強い番犬でも雇った気でいるのか、中国的というのか、はたまた大人というのかよくわかりませんが、中国政府が本気で怒っていたのかどうか。もちろん学生達は怒って、天安門広場に何千人も集まり、さらに全国的に反日運動が広まったということです。反日運動の歴史はよく知っておかないといけません。遅ればせながら勉強します。

 さて、天安門の奥に筒子河という名前の堀に囲まれた広大な故宮があります。私が泊まったホテルがある胡同は礼士胡同と言いますが、ここから20分も歩けばもう故宮です。色々見ながら歩いているとスグです。左に故宮、右に景山公園を見ながら堀に沿った長ーい歩道を行きます。堀の水は凍っています。大体気温も零度くらいということになります。北海公園の入口も見えてきました。入場料は15元。凍った湖にアヒルがいます。中央アジア系の人達が踊っています。岩山の階段を上って行くとお寺があり、仏像もいくつか。
 岩山の頂上にはチベット仏教の仏塔があります。前に書きましたが、このチベット式の仏塔は清国建国7年後に当時の皇帝が建立したものです。チベット仏教が遠くモンゴルへ広がり、やがてモンゴルを抑えていた満州人達が、中国の多数派漢民族を支配し清を建国。首都を北京に移し、広大な皇帝の公園である北海公園の中心にチベット式仏塔を建てる。これは実にドラマティックな話です。
 と同時に、今、なぜ漢民族の国である中国が、チベットを虐めているのかが分かる様な気がします。被支配者達が力をつけ、落ちぶれた支配者を追い出す、という構図。あるいは歴史は繰り返すとも言います。
 しかし、チベットは仏教を大切にすることによって、元々戦闘的な(チベット人全部というわけではありません)民族の性格が平和的な穏やかな性格に変わって行き、今日に至っているわけです。
 
 山の頂上から向こう側、北海を眺めます。こんなに広ーい公園が首都にデーンと構えているところが正に中国的です。岩山を降りて行くと、回廊があります。「日本人ですか〜?」って言って写真を撮って欲しいと頼んできたのは、韓国から来た女の子二人組でした。
 百何十年も昔、勝海舟は中国のスケールの大きさ、韓国・朝鮮から多くの文化が伝わって来た事などをよく認識していました。喧嘩なんぞしている場合ではないという事でしょう。それが証拠につい70年ほど前、日本はえらい事になちゃったわけです。今の中国は非常に難しい国ですが、理解を深めないといけませんね。

 静かな湖を見ながら、北海公園を通り抜け、南羅鼓巷という胡同を利用したおしゃれな通りに向います。