17日目① シガツェ パンチェン・ラマ10世 11月26日(金)

 朝はホテルのレストランでパンにコーヒーに野菜に卵にポテトにヌードル、それにヨーグルト。厚着をしているチベット系と多分中国系の女の子が3人で給仕。部屋の温度は13〜4度でしょうか。オフシーズンでお客が少なく、暖房は弱めなので寒いです。でも沢山食べたから大丈夫です。

 今日は歴代パンチェン・ラマを祀ったタシルンポ寺を見学します。

 パンチェン・ラマ10世は、インドへ亡命したダライ・ラマ14世とは別の方法、すなわち中国国内で生き延び、抵抗する事によってチベット仏教を守った人です。当初、中国共産党パンチェン・ラマ10世をチベット植民地経営に利用する為厚遇していました。パンチェン・ラマ10世自身も、恐らくは中国とチベット双方の為になると考え行動していました。が、中国政府のチベット人に対する抑圧、弾圧の実態が分かるにつれ、それが叶わぬ事と悟り、1962年、7万語に及ぶ告発の書を中国政府に提出します。そして、1964年、ラサでの大祈願祭の際、演説の最後に、なんと「ダライ・ラマ万歳!」と叫んだのでした。その後、中国政府から徹底して思想改造を強要され、文化大革命の時代には投獄、その後、軟禁生活を送りました。また、パンチェン・ラマ10世は1979年、中国人の女性と結婚させられ、1983年には女の子が生まれました。これはチベット仏教の僧侶としては戒律を破ることになり、多くのチベット人も失望したとのことです。 
 
 しかし、その後もパンチェン・ラマ10世の抵抗は続きます。1987年3月。中国全国人民代表会議に於いて、中国政府によるチベット植民地支配の実態を報告。1989年1月。その不可解な死の僅か数日前に、共産党の大会で演説をしたパンチェン・ラマ10世は、用意された原稿を無視し中国政府を痛烈に批判しました。

 一時は、国外にいるチベット人から中国の傀儡だと誤解されたのですが、国内に残って抵抗の生涯を全うしました。そうした事が理解され、今、多くのチベット人の尊敬を得ています。町の商店、レストランなどでもパンチェン・ラマ10世の写真を見かけます。
 
 1994年、中国政府は10億円をかけてパンチェン・ラマ10世の霊廟を建立しました。これは、しかし何の為なのか。