15日目③ ラサ ネチュン・ゴンパ ダライ・ラマの神託官 11月24日(水)

 

 デプン・ゴンパ見学の後、日当たりのいい食堂でカレーライスを食べました。ちょっと汁気というかルーが少ないなーと思いましたが、大きいヤクの肉が入っていてボリュームがあります。
 ミルクティを飲んで休憩したら、山を降りてネチュン・ゴンパまで15分くらい歩いて行きました。ちょっと振り返るとデプン・ゴンパの全景が見えます。また、文化大革命の頃に破壊されたと思われる建物の跡などがそのままになっています。

 ネチュンというのはダライ・ラマの神託官。つまりは公式の高級占い師とでも言う様なものですが、宗教的見地からダライ・ラマに対して大切なお告げをします。1959年3月、ダライ・ラマ14世が中国軍から逃れる為、ラサを脱出する際、このネチュンの神託では、迷うことはない今夜脱出せよというものだったという話をどこかで読んだ覚えがあります。「ダライ・ラマ自伝」の1959年3月のあたりを読み返しているのですが、ちょっと見当たりません。出典がわかったらまたご報告します。

 占いが好きなのは何も女性や社長だけではなく(女性および社長さん、他意はありません。優柔不断の傾向がある私などは、占いでエイッと物事を決めることも大切だと思っています。)男性も、そしてチベットの政治と宗教の最高指導者であるダライ・ラマも、一定の尊重をしていたということです。ネチュンが祈祷をして神のお告げを授かる時は、大変な精神集中が必要で体力も相当消耗し、終わってからは一人では立てず両側から人に支えてもらうほどだそうです。
 ちょっとその辺の占いとはワケが違うのです。
 
 1959年3月、ダライ・ラマ14世は中国軍から側近を連れずに、ノルブリンカ宮殿へ観劇に来る様招待されます。普通、ダライ・ラマ14世がラサの町に出るとなるとチベット人はすぐ町に出て、ダライ・ラマを見ようと待っています。警備上の問題などで普段と違う事があるとすぐ分かるのか、あるいは正式にダライ・ラマがお通りになると発表するのかわかりませんが、ダライ・ラマが町に出る場合はすぐ知れ渡る。この時は護衛を連れて来るなという全く不自然な招待だったので、チベット人たちは、中国人が、ダライ・ラマを捉えようとしている事を察知しました。また、それが一部のチベット人だけではなくラサにいた何万人ものチベット人に伝わった。1950年からの中国軍の弾圧を知っているチベット人ダライ・ラマが危ないと思ったのは当然でした。ノルブリンカ宮殿の周りに何千人というチベット人が集まりました。あるものは棒きれ、ナイフ、銃を持っている者も、少数だけれど機関銃や迫撃砲まであったそうです。中国軍の増援部隊もやって来る。一触即発の状態です。ダライ・ラマ14世としてはこの10年の間、暴力を否定し、なんとか中国側とうまくやって行く道を探っていました。それこそ、周りから見れば優柔不断に見えたかも知れません。しかし、事ここに及んでは大惨事を招くことは明白だった。自分が捕まらずに国外へ脱出するしか方法がないことを悟ったのでした。そして、兵士の姿をしたダライ・ラマ14世が、家族、側近とともに秘密裏に脱出に成功した48時間後、ノルブリンカ宮殿やポタラ宮が砲撃され、何千人もの死者が出たそうです。

 今や、ネチュンも他の僧侶達も既にインドへ亡命し、このネチュン・ゴンパもデプン・ゴンパからの帰り道に立ち寄るくらいで寂しいものです。しかし、この時は偶然、ガイドのジェムツォさんの友人夫婦と会いました。カッコイイ旦那さんに可愛い奥さん。赤ちゃんを連れて幸せそうでした。
 ネチュン・ゴンパから見るラサの町には家賃の高そうな高層アパートが沢山見えます。
 
 明日は2泊3日の予定でギャンツェ、シガツェという町へ行きます。途中、5、000メートル級の山を超えるので、よく休んでおきます。