15日目② ラサ デプン・ゴンパ 仏像 11月24日(水)




 沢山の仏像を見ました。日本の仏像とはかなり雰囲気が違います。こちらの仏像は基本的に金色。青い髪。強烈な印象ですが、毎日見ているうちに慣れてきました。穏やかで美しい表情の仏像も多く見られます。また、仏陀の護り神はお寺の入口などに怖い顔をして控えています。過去のダライ・ラマの像もあります。
 ダライ・ラマ13世の写真が祀られていました。

 ダライ・ラマ13世・トゥプテン・ギャンツォ(1876〜1933年)は生涯2度も国外に亡命しています。一度目は1903年イギリス軍に侵略された際、モンゴルへ、2度目は1910年、清国軍から逃れる為にインドへ。中国、イギリス、ロシアなどの大国に翻弄され、国のかじ取りは本当に難しい時でした。1913年チベットの独立を宣言したものの国際社会はなかなかこれを認めない。中国は侵略のチャンスを狙っている。チベット軍の強化も必要で日本の矢島保次郎という元軍人が軍事顧問になっていました。ダライ・ラマ13世は軍はもとより税制、公務員制度、郵便制その他国内の近代化に尽力しましたが、急激な改革には激しい反対もありました。ダライ・ラマ13世は、1933年11月、このままでは外国勢力に侵略されてしまうと予言して亡くなります。その後、中国から侵略され1959年にはダライ・ラマ14世のインドへの亡命と続きます。
 
 デプン・ゴンパに限らず古くから伝わる多くのお寺を見ましたが、国や宗教、文化を守ることの難しさを強く感じます。
 いつも書きますが、敵を愛せよと教えられてきて、その通り生きてきた人たちが、外国の勢力に侵略され、身体、生命、財産を奪われ、抑圧される。こうしたことを防ぐ為には、家の門を閉じ、戸締りをしておくことが必要で、これは普通は軍隊の役目になる。チベットで起こった事は他山の石としてよく知っておかないとけないと思います。

 ダライ・ラマ14世自身が、1959年3月、多くのボディガードに守られ、ラサからインドへ脱出しました。もし弱小のチベット軍やゲリラそしてボディガード達が、負けると分かっていても侵略軍に立ち向かわなかったら、また、何万とも言われたチベット民衆がノルブリンカ宮殿に集結しなかったら、ダライ・ラマ14世の命はなかったかも知れません。
 
 古今東西、国の歴史は戦いの歴史でもあり、非暴力の思想と行動は高く厚い壁にぶつかって行く様なもの。厳しい道ですね。